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トルーマン・カポーティ/ティファニーで朝食を

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自分自身と相手の状態、そして時代のすべてが調和をもって存在した空間。思い出にひたるぶんには奇跡のように思えるのだけれど、実際に今一度相手に会おうとは思えない。今の自分たちが昔の閉じた永遠性を壊してしまうように思えるから。そんな人間関係ってたしかにあるな、と村上春樹訳の「ティファニーで朝食を」を読みながら考えた。

思えばホリー・ゴライトリーという女性はなんと不憫な女性なのだろう。なぜなら物語の中で彼女と関わる男性が彼女にたいしてことごとく間違った対応をしてしまっているからだ。そして文脈から察するに過去にも未来にも彼女を正しく扱う人物は現れない。
男性は彼女にたいして恋心なんて抱いてはいけなかったのだ。彼女にとって必要だったことは無理やりにでも彼女を現実世界に縛り付けておくことだった。登場人物たちはそのことに気づいている。彼女が“まやかし”だということに。
しかし誰もその責任を負おうとはしなかった。そんな正しく、骨の折れる作業に労力を注ぐくらいなら、間違いだと気付きながらも彼女に恋をして一時の大瀬に身を焦がすほうがよっぽど楽だし、彼らの望んだことでもあった。ドクは14歳の彼女に求婚なんてすべきではなかったし、主人公もジョー・ベルも彼女を国外に逃がす手伝いなどすべきではなかったのだ。
しかし、あまり男性ばかりを非難することもできない。なぜならそのような関係を彼女自身も求めていたし、年の割にそんな役割に慣れすぎていたからだ。訪ねてきたかつての婚約者のドクを故郷に帰るよう説得し、見送ってから彼女はこんなことを言う。

「野生のものを好きになっては駄目よ、ベルさん」とホリーは彼に忠告を与えた。「それがドクの犯した過ち。彼はいつも野生の生き物をうちに連れて帰るの。翼に傷を負った鷹。あるときには足を骨折した山猫。でも野性の生き物に深い愛情を抱いたりしちゃいけない。心を注げば注ぐほど、相手は回復していくの。そしてすっかり元気になって、森の中に逃げ込んでしまう。あるいは木の上に上がるようになる。もっと高いところに止まるようになり、それから空に向けて飛び去ってしまう。そうなるのは目に見えているのよ、ベルさん。野生の生き物にいったん心を注いだら、あなたは空を見上げて人生を送ることになる」

たしかにドクは間違いを犯した。彼はホリーを女性として愛すべきではなかった。そのことは正しく言い当てていると思う。しかし彼女自身、自分の刹那的人生を全面的には信頼出来ていない。それが出来ていたらアカになんかならない。そんな彼女の言うこのセリフをどこまで信用していいのだろうか。だいたい彼女は19歳なのだ。
誰かが傷ついた野生動物を介抱し、そして正しい空の飛び方までを教えなければならなかったのだ。
とはいうものの、ホリーのような女性が目の前に現れたら僕はどうするのだろう。きっと作中の男性同様恋をしてしまうだろう。良くも悪くも抗いがたい魅力が彼女にはある。そして彼女との過去を思って懐かしんだりするのだろう。でも今は会いたくないナ、なんて。難しい。

これは村上春樹が新しく翻訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ時にも感じたことなのだけれど、村上春樹は翻訳をするにあたって作品本来がそなえている普遍的な価値、テーマを見つけ出しそれを提示するのがとても上手い(本当のところは原文を読まずしては語れないが)。また村上春樹の文体はそれに適している。
野崎訳の「ライ麦畑」も、竜口訳の「ティファニーで朝食を」も時代を象徴する名訳だと思う。しかしそこにはその時代の持つ社会風潮が多分に含まれ、翻訳に余分なバイアスがかかっているように感じた。これは作品にとって必ずしも良い影響ではない。
村上春樹の訳はそういった時代的装飾を取り除いてよりフラットな状態で作品を読むことが出来る。
次はレイモンド・カーヴぁーでも読んでみようと思う。

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現在、某大学に在学中。

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